健康/health

【禁断症状編】病気のデパート#4

 こんにちは。幸福の天鼠(てんそ)ブログの著者、天鼠です。

 いつもブログはテーマを決めたら気の向くままに書いていくのですが、ある程度あらすじを考えてから書き始めた方がいいのでは?と思う今日この頃です。

 普段からブログを書くときに気を付けていることがあります。読みやすい文章、分かりやすい表現、理解しやすい内容を心掛けています。堅苦しく漢字ばかりの文章は読み難いですし、抽象的な表現、万人に伝わらない表現もなるべく避けるようにしています。ただ記事全体のバランスがどうなのか?自分でもよく分かっていません。最初に述べた「ある程度あらすじを考える」というのが必要なのだと思っています。

 ではそろそろ【禁断症状編】をはじめましょ~(^O^)/

「お前の方が少し多くね・・・」

 

 離婚後、私の心と体は徐々に回復へ向かい始めました。私の自我は長らく嫁に依存していた過去があるため、嫁は私の自我の確立を阻む大きな影響力を持っていました。いざその影響の及ばない生活が始まると、嫁に抱く罪悪感とは裏腹に心も体も軽やかに動くようになりました。嫁や嫁の家族から向けられるべき非難から免れたことで、卑怯と分かりつつもホッと胸を撫で下ろす自分がいました。

 私が散々苦しめてきた嫁は、離婚という決断で私の肩の荷を下ろしてくれました。とても感情豊かでまっすぐ我が道を行く、私には勿体ない嫁でした。再び実家に戻った私は、ただただ自分の不甲斐なさを持て余す日々を送り始めました。

 無職のままでは実家に居続けることができないのは分かっていました。さすがにもう追い出されるのは真っ平御免なので、実家に戻ってすぐ就職活動を始めました。しかし3年近く社会との関わりが途切れたうえに、回復に向かったとはいえ【境界性人格障害】の症状は未だに尾を引き、なかなか思うように就職活動は進みませんでした。

 就職活動中に試用期間を1週間設けることを条件に、水門の設計事務所で仕事をしました。おじいちゃん社長が社員を怒鳴り散らす、小さくてアットホームな会社でした。
 私は1週間働くだけで精魂尽き果ててしまいました。条件付きで採用をもらえましたが、来週から正式採用で働くことなど考えられず、その場で辞退しました。
 社長はある程度私の事情を察して「まだ若いのだからもっと気楽にできる仕事を探しなさい」と声を掛けてくれました。内心怒鳴られるかと思っていたので、突然の思いやりある言葉に感謝の気持ちが込み上げ、次へ進む気力が湧いてきました。もちろん帰ってから父の機嫌を大きく損ねる事になりました。

 社長の言葉をヒントに、まずは社会生活に馴染む事を最優先に仕事を探すことにしました。「とりあえず働いてみてる」と言う感覚で、私は派遣会社に登録して派遣社員として働き始めました。
 最初に派遣されたのは自動車部品の工場で、3交替で製造ラインのオペレーターをやりました。今までに機械を操作したり調整したりする経験が無かったので、慣れるまでに沢山失敗をしましたが、慣れてくると機械を弄るのが楽しくなっていきました。
 職場の人間関係にはなかなか馴染めませんでしたが、親切で少々やんちゃな職場の方たちにいろいろと教えてもらい、少しづつですが打ち解けていきました。半年後には非正規ながらも直接雇用になり、徐々に自分に自信を取り戻して行きました。

 それからあっという間に3年間が経ち、私は30歳になっていました。心療内科には常に通っていましたが、持ち前の生真面目さで1日も仕事を休まず勤務していました。変わった事といえば、友人との関係を敬遠したり、場合によっては拒絶していたことです。そしてそんな中、私を次の病へと向かわせる出来事が起こります。

 忘れもしない2011年2月。父は祖父、祖母を巻き込み、3人で結託して私を実家から追い出しました。血の繋がった家族3人に根も葉もない言いがかりをつけられて、私は実家から出ていくよう宣告されました。
 怒りと悲しみで体が震え、息ができなくなる程の動機と息苦しさを味わいました。病を抱えながらも休まず働き、実家に生活費を入れ、精神的にも普通の暮らしを送れるようになっていました。
 なぜ受け入れてもらえないのか疑問に思うより早く、「そんなに嫌いならもう殺して欲しい」と心の中で唱え続けていました。

 1人になると涙が止めどなく流れてきました。「涙ってこんなに出るんだっけ」と冷静になるぐらい涙が出ました。
 次の日は朝から不動産屋へ行き、その日のうちに1Kのアパートを契約しました。契約から引っ越しまでの間、父、祖父、祖母と同じ場所に居ることで、生きた心地がまったくしませんでした。早く実家から出たいと思えば思うほど、なかなか時間は経ってくれませんでした。

 実家を出てからは、家族と関係を持ないように努力しました。もう家族に傷つけられたくありませんでした。関わりと言えば、母が私のアパートの玄関に食材を差し入れてくれる事ぐらいでした。
 正月などの休暇に1人で過ごしていると、家族が自分抜きで楽しそうにしているのを想像して、疎外感から寂しくなることもありました。家を出て数年後、祖父が他界しましたが通夜、告別式には出席しませんでした。「死んだことで許される訳がないだろ」と私は自分に諭しました。
 家族への恨みと憎しみを抑えきれないほど抱え、それをエネルギー源として生きていました。自立して生活してさえいれば、私の人格を否定する人間と関わらなくて済むのです。
 その一方で私は何度も家族を許そうと努力しました。恨みや憎しみに囚われることで、自らが苦しみ疲弊して行くことに気が付いていました。しかし私の心は頑として家族を許しませんでした。
 私はそんな寂しい気持ち、苦しい気持ちをアルコールを飲むことで麻痺させる様になり、心身共にアルコールに蝕まれていきました。

 そんな精神状態で生活を続けて行くうちに、少しずつアルコールへの耐性が崩れはじめました。今まではなんともなかった酒量でも悪酔いしたり、すぐに記憶が無くなるようになりました。
 飲みに行くと無事では済まず、一夜で多額のお金を浪費したり、公共の建物に昇って騒いだり、自宅でない場所で起床するのは恒例行事となりつつありました。
 お酒で失敗すると、以前なら反省してお酒を自粛する生活を始めましたが、そんなことなど無かったかのように次の日もお酒を呷りました。
 以前にもましてアルコールに依存するようになり、ついに今までなかった症状が現れるようになります。

 常に居座る不安感。アルコールに対する異常な渇望。イライラが止まらない。機械の稼働音が自分を呼んでいるように聞こえる。すべての音がこもって聞こえる。動いているものが一瞬コウモリや蛾、小動物に見える。自分が一瞬どこにいるのか分からなくなる。指が上手く動かなかったり若干震えたりする。
 こんな症状は決まってアルコールが切れている時に出現し、私はアルコールを摂取していないと、心身ともに異常をきたすようになりました。

 しらふの状態ではアルコールが頭から離れず不安でたまらなくなり、朝からアルコールを飲んで出勤するようになりました。
 休日は酒を飲んでいるか酔い潰れているかどちらかという、連続飲酒状態になっていきました。350mlのビール2、3本で記憶が曖昧になるぐらい耐性が無くなっていました。私は完全にアルコールの虜になりました。

 その一方で「このままではまた働けなくなってしまう」と不安を感じながら過ごしていました。最終的には、自分の意志でアルコール病棟へ入院することを決意しました。
 自ら入院することを決意できたのは、家族から逃れようとしていたからだと後で気付きました。働くことができなくなり、自立して生活ができなくなると【うつ病】時代の二の舞になり、また家族に迷惑をかけ自分が傷つく事になるからです。
 アルコールに囚われながらも、それだけは何としても避るよう私を治療へと向かわせたのは、奇しくも家族の存在でした。

この写真に題を付けるなら ~お酒と友情と産毛~

 

 初めに派遣された会社で、今では正社員として働いていますよ。私を認めてくれる素晴らしい会社です。

 もっと【禁断症状】をメインに書きたかったのに、書き終わってみると【社会復帰&追放&禁断症状】みたいな内容になっちゃいました。今後の課題ですねぇ~

 次回は気分転換の回にします。私が【幸福の追求】のために取り組んでいる【投資】について大雑把に紹介してみたいと思います。(細かく説明すると長くなるので)皆さんの資産運用の参考になれば幸いです。

 ではまた次回で(#^^#)

Free-PhotosによるPixabayからの画像