健康/health

【離婚編】病気のデパート#3

 こんにちは。幸福の天鼠(てんそ)ブログの著者、天鼠です。

 今回は病気のデパート【離婚編】です。結婚から離婚までの展開が早いですね。結婚生活は約3年程しかありませんでしたから、そのほとんどをうつ状態で送りました。
 「死ぬまでにまともな結婚生活を体験したい!」「海外ドラマ【フルハウス】の様な家庭を持ちたい!」心の声です。それを体験できるテーマパークあったら、絶対年間パスポートを購入しますね。痛々しい話はそれぐらいにして、病気のデパート【離婚編】へ進みましょう。

入園チケットが婚姻届けで、帰る時は離婚届を投げつけられる・・・どう?

 

 私と嫁は2人で生活することが不可能な状態になり、半ば強制的に私の故郷である岡山へ帰ることになりました。
 帰省してすぐ私は人生で初めて精神科を受診しました。ほとんど虚ろな状態で、病院へ向かう車から外を見ていたのを覚えています。何を考えていたのか、今ではまったく思い出すことができません。病院ではまず始めにアンケート用紙が渡され、それに回答していきました。何が書いてあったのか、どんな回答をしたのか、ほとんど覚えていません。覚えているのはただ【死にたい】にチェックを入れたことだけです。チェックを入れた瞬間、家族の悲しみの色が濃くなるのが分かりました。
 診察は60歳ぐらいで小太りの男性医師が担当しました。魚釣りをする時に着るようなベストを着て、鼻毛が出ていたのをなぜかしっかり覚えています。診察の結果、私は【うつ病】と診断されました。それを理由に仕事を休職し岡山で療養生活を送ることになりましたが、薬を飲んで呪文の様に「頑張っちゃダメ」と言ったり言われたりする、今までに経験のない生活が始まりました。

 実家では感情を制御できない長男が、両親を精神的に追い詰めていきました。気に入らないことがあると大きな声で怒鳴り、悲しいと助けを求め号泣しました。イライラして物に当たることもあり、部屋の壁には今でも穴が開いています。
 この頃の私は、大人は必ず持っている心のバリアーが無くなり、周りの人の言葉や態度が心に全部突き刺さる毎日でした。傷つき、のたうち回りながらなんとか1日1日を生きていました。厳格な父はこんな人間に育てた母を攻め、私に家から出ていくよう迫りました。優しい母は必死に私をかばおうとしてくれましたが、最後はいつも父に服従しました。
 私は無条件で受け入れてもらえない惨めさから、両親を心から憎むようになっていました。私は何度も実家を追い出され、行く当てもなく町をさまよったこともあります。両親は豹変した長男を理解できず、手を差し伸べようにもどう接していいのか分からなかったのでしょう。

最初に追い出されて、路頭に迷った末にたどり着いた場所。
優しい他人に救われました。

 

 親子と兄弟の距離感の違いでしょうか、姉と弟は両親と比べてかなり冷静でした。特に姉は一番冷静に向き合ってくれて、親よりも頼りになりました。しかしそんな姉さえ怒りの矛先になることもありました。姉と電話で会話中にちょっとした事で怒りが込み上げて、怒鳴って携帯をぶっ壊したのを覚えています。弟は兄弟と言うよりは友達に近い関係でした。一緒に居ると気が楽で、うつ病になる以前の自分に近い状態でいる事ができました。

 岡山に帰ってから、私の心の支えになってくれたのは友人達でした。よく一緒に飲みに行きました。アルコールを飲み過ぎて、友人達にいつも迷惑を掛けていた記憶が残っています。お酒を飲んでいる途中で逃走し、迷子になって泣きながら友人に電話で助けを求める。深夜の国道沿いを上半身裸で何キロもお散歩。どこで手に入れたのか、誰のものなのか分からないドカジャンを着て早朝帰宅。飲み過ぎると【ブラックアウトして逃走中】が印象に残っています。友人達はそれでも私の近くに居てくれ、私を必要としてくれました。
 この頃の友人達との関係は、私にとって少し遅い青春そのものでした。底抜けに楽しい思い出と、それと同じぐらい辛い思い出が混ざり合い、いつも私に生きた証を見せてくれます。

 【うつ病】と診断されてから半年程で1度病院を変わり、その間いろいろな薬を処方されましたが、改善に向かう気配すらありませんでした。
 この頃には【境界性人格障害】という診断を受けていました。その時の症状は、気分が落ち込んで気力が湧かない。理由の無い慢性的な焦り。理不尽な怒りの感情。常に見捨てられる恐怖を感じる人間関係。人間を善か悪の2極で捉える傾向があり「この人は自分にとって無くてはならない存在だ」と理想化する一方、何か気に入らない言動や行動があると「こいつは裏切りもの絶対に許さない」と幻滅を繰り返す両極端な対人感情。
 【境界性人格障害】の症状と合致していることを自ら確認できましたが、症状を自覚できたところで現状にあまり変化はありませんでした。

 2度目に実家を嫁と一緒に追い出された時、すでに嫁は働き始めていたと思います。嫁は私には言いませんでしたが、一時期心療内科に通っていました。嫁の方が私より早く立ち直ろうと前向きに努力し、働いて2人の生活を支えようとしてくれました。
 私はそんな嫁に沢山ひどい事をしました。働かない。昼から酒を飲む。夕飯ごとコタツ机返しをする(ちゃぶ台返しと同じ要領です)。暴力をふるう。浮気をする。私がどれだけクズ人間だったか、どなたでもお分かり頂けると思います。それでも嫁は私の回復を信じて、献身的に支えようとしてくれました。
 しかしそんな状態でまともな結婚生活が送れるわけもなく、2007年12月に嫁と私の結婚生活は終わりを迎えました。結婚して3年弱、付き合い始めてからは約8年が経過していました。私は嫁から提案された離婚を受け入れ、また実家暮らしへと戻る事になりました。

 私が嫁にしたことは今でも思い出し、後悔が心に残り続けています。未熟な人格の私が、嫁を散々傷つけたことは誰が見ても明白な事実です。

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 私は現在に至るまでに、大切な人と築いてきた良い関係を失ってきました。自ら放棄したと言う表現の方が近いかもしれません。私の内面では対人感情が両極端で移ろいやすく不安定でしたから、常に心の中は見捨てられることに怯え、被害妄想の裏切りに怒り苦しみ、人間との付き合いは耐えがたい苦痛を伴いました。
 友人達からの誘いには心を躍らせて駆けつけることもあれば、躊躇したり拒むこともありました。その理由は友人達との関係が私の理想で、私に最高の居場所を与えてくれただけに、そこから一気に突き落とされる恐怖は桁違いでした。平地を歩いていて落とし穴に落とされるより、ビルの上から落とし穴に突き落とされる方が怖いですよね。
 私の心は1人きりになりたいと訴え続け、それに私自身も逆らうことができませんでした。私は対人関係の恐怖から逃れる為に、裏切るはずの無い人との関係まで手放していきました。自分を守るために、自分が一番されたくないことを、自分が周りの人間にしていたのです。

家族が笑顔で出迎えてくれるアトラクション・・・どう?
オプションで嫁のビジュアルをグレードUPできる・・・どう?

 

 過去を思い出しながら書いていると、自然と過去の映像が浮かんできます。忘れていたことを思い出したりもして、ブログを書くことで自分の内心を整理することができます。

 次回は【禁断症状編】です。アルコールの禁断症状が発現して、アルコール依存が急速に進みます。くわばらくわばら。

じゃまた次回で(#^^#)