健康/health

【神経衰弱編】病気のデパート#8

 こんにちは。幸福の天鼠(てんそ)ブログの著者、天鼠です。

 今回は【神経衰弱編】です。トランプの神経衰弱が止められなくなった話じゃないですよっ。「ノイローゼ」とか「神経症」の方です。

 今までにいろんな病気にかかりましたが、その根底に常にあったのは「境界性人格障害」という人格の未熟さだと認識しています。人格が主な要因だったということですね。今回の症状は「環境」が主な要因で発症しました。えらいこっちゃ~。

 それでは本編です。(^^♪

ヌォーリーを探せっ!

 

 2015年7月。躁状態が終わりに近づいていた頃、仕事で大きな環境の変化があり、その影響で大きな精神的重圧を感じながら生活をしていました。
 女性が大多数を占める職場の管理業務を担当していましたが、それに代わって工場の出荷管理業務を担当することになりました。今までに経験のない業務を、まともな引き継ぎも無いまま、私1人でこなさなくてはならなくなりました。

 今まで小さな工場で機械をいじったり、女性にいじられたりしていた人間にとっては、異世界へ転生するぐらいの環境の変化でした。得体の知れない世界へ転生し、そこでの生きるすべもルールも分からないまま、いきなり「サバイバル開始!」といった状況でした。
 何が分からないのか分からない状況では、まともにサバイバル(業務)を進める事は不可能でした。目も当てられない程にボコボコにやられ、物陰に隠れて怯えながら生き永らえていました。

 頭の中は不安で支配され、不測の事態が起こるとすぐ冷静さを失いました。自分の力でなんとか職務をまっとうしようと努力しましたが、疲労を蓄積するだけでまったく成果はあがりませんでした。
 出荷日までに製品がそろわず、船便で輸出する予定だった製品を、航空便を使ってバンバン出荷していました。航空便で輸送すると輸送時間は短縮されますが、約10倍の送料がかかる為、追加の送料を毎月数百万円単位で計上していました。
 多額の送料に対する自責の念から、圧倒的な無力感に支配されていきました。精神を崩壊させる程の不安と無力感から、冷静に業務を進めることすらできなくなりました。

 これまでは持ち前の生真面目さで、慣れない環境にも適応してきました。今回に至っては箸にも棒にもかからない有様で、工場全体に迷惑を掛けている自分が、情けなくて仕方がありませんでした。
 工場内には私の業務を理解してくれる人は少なく、悩んでいても誰にも相談できない孤独な状況でした。心の中ではいつも「何で私だけがこんな目に・・・」と嘆き続けていました。
 孤独な業務に1人苦しむ中で、自分の事を理解くれない周囲に、軽蔑と敵意を持つようになっていきました。笑っている人間を見ると、無性に腹立たしく感じました。

 心と体への異常はすぐに出始めました。常に不安を抱え疲れが取れない。仕事に行くのが辛くて死にたくなる。胸が詰まって息苦しい。動悸がして変な汗がでる。パニックになって逃げる様に早退したりもしました。
 1度だけ上司に勇気をだして「仕事をやめたい」と相談しましたが、うまくあしらわれ逃げ場を失いました。

 休日は業務で味わう苦痛が無い分、違う苦痛が私を襲いました。仕事の不安が頭から離れず、悪い妄想が次から次へと現れて自分を苦しめ、何も手につかずほとんど生殺しの状態でした。
 私を苦しめる妄想を頭の中から消そうと、毎日アルコールを摂取しました。しかし今回はまったく役に立たず、飲んでも飲んでも私の苦痛を和らげてはくれませんでした。

 症状が末期を迎えると、1人で暮らすことに支障が出始めました。部屋はコンビニで買った弁当や飲み物のカスで散乱し、徐々にカビが生えて不衛生な状態になっていきました。
 毎日アルコールを飲んで母に電話をし、辛い胸の内を泣きながら暴露しました。
 酔い潰れて寝ると不快な感覚で目が覚め、バケツで水をかぶった様な異常な量の寝汗をかきました。この頃の私は、自立して生活をする気力さえ失ない、ぼんやりと死ぬことばかり考えていました。

 2015年10月。実家を3度追い出されていましたが、不本意にも3度目の帰宅が許可されました。病気にまみれていく長男を不憫に思い、家族は私の帰宅を許してくれました。私は結局憎んでいた家族に助けられ、家族の助けが無ければ生きて行けない、未熟で弱い人間である事を思い知らされました。
 実家に帰りほぼ無言の食卓で食べる食事は、気まずい空気と、ほんの少しの安心感を私に提供してくれました。

 父とは今でも会話をすることがありません。父の質問に私がイエスかノーで回答するやり取りが、年に数回あるぐらいです。母とは父が居ない時に少し話をします。
 実家で生活することで「迷惑を掛けてまた追い出されたくない」「追い出されて傷つきたくない」という思いでアルコールを遠ざやすい環境にはあります。ですが実家でも隠れてアルコールを飲み、止まらなくなって度々ブラックアウトしています。
 それを直接知っているのは母だけです。ギクシャクして、お互いに気を遣う親子関係になってしまいました。一緒に暮らす意味を微かに感じる瞬間もありますが、なぜそのように感じるのかはまだ解明されていません。

 3度目の帰宅をしてからは、大きな病気を患う事も無く、5年経過した現在でも実家で生活をしています。
 「境界性人格障害」については【昇華】して行く過程に入っていると感じています。終わりの見えない底なしの苦しみを心に抱えることで、知らず知らずの内に未熟な精神は磨かれていきました。過去の経験のお陰で今の私は存在し、私は私らしくあることができるのです。

 糖尿病については血糖値がある程度コントロール出来ています。現在「HdA1c(ヘモグロビンエーワンシー)」は6.0未満を維持しており、もちろんインシュリンのお世話にはなっていません。今後も継続していきたいですね。

 問題はアルコールなのです。実家に帰ってからも度々制御不能になりかけ、私の可愛い持病達の中で一番手のかかる子なんです。今後何気ない日常を投稿していく中で、大きな割合を占めそうです。

 【病気のデパート】がここで終わるのか、まだ続くのかは私が死ぬまで分かりません。
 「もう病気になんてなりたくない」「幸せな毎日を過ごしたい」と意識的に願う一方で、「病気になって惨めな気持ちになりたい」「哀れな目で見られたい」と無意識に念じている自分を見つける瞬間があります。私自身も、なぜ悲惨な未来を無意識に求めているのか分かりません。

 今までの経験から、私が自信を持って言えることは「強く念じれば実現する」ということです。多くの病歴や孤独な状況は、私の潜在意識が念じて実現して行った事柄なのです。
 潜在意識の影響力は、私たちが思うより遥かに大きく、絶対に逃れることはできません。私は無意識下でも【幸福を追求】することができるのか?今の時点では正直自信がありません。(終)

ヌォーリーを探したい人は、捜索願を出しましょう。
それが社会のルールですから。

 

 【病気のデパート】は不幸な話ばかりでしたよねぇ・・・ごめんねm(_ _)m
 だけども、不幸が無ければ幸せという言葉、概念は存在しないんです。不幸があるから対極の幸福が際立つんです。不幸をいっぱい味わったから、何気ない幸福を大切に感じられるんです。
 幸せが眩し過ぎると臆病になってしまうこともあるけれど・・・そんな自分を変えるためにも、幸せに対して貪欲に生きていきたいんです!そんな私にとってブログは決意表明であり、いつ書き終わるかわからない遺書でもあるんです。

 過去の出来事を思い出しながら【病気のデパート】を書いてきました。自分自身の過去を振り返ることで、自分の内心を整理する良い機会になりました。

 病気のデパート、次回は【認知症編】で会えればと思っています。

 さようならぁ(^^)/

György SimonによるPixabayからの画像