こんにちは。幸福の天鼠(てんそ)ブログの著者、天鼠です。
「新型コロナウイルス」っていつまで新型を付ければいいのでしょう?いつかは「新型」を卒業する時が来るので、今のうちから本名で呼んであげましょう。
私はコビット19(COVID-19)って呼ぶ方が好みです。だって「こびと」が19人集まった感じで可愛いでしょ。
でも可愛い呼び方に変えても、残念ながら現実は変わりませんよねぇ。自粛でストレスを溜め過ぎないように「ボチボチ」やりましょうね。
じゃあ病気のデパート【高血糖編】をご覧ください。
2013年10月。精神病棟から退院した私には見るのも全てが色鮮やかに映り、心と体は生命力に満ちあふれていました。その生命力を存分に使って、入院中から思い描いていた事を1つ1つ実行に移していきました。
まずは家族から逃げるのをやめ、できる範囲で接点を持つように心掛けました。相変わらず私に対する理解は無かったのですが、私を実家から追い出した家族を許すことで、過去の自分と決別したい一心でした。身近な人に感謝の気持ちを持つことを意識して、日々生活を送りました。
また絶縁していた友人と連絡を取り、昔の様に一緒に飲みに行きました。もちろん私はアルコールを飲まなかったので、以前の様な楽しい時間を過ごすことはできませんでした。会って話ができる嬉しさと「もう昔の様には戻れないのだ」という寂しさを同時に感じました。
雪山へ一緒にスノーボードをしに行きましたが、やはり同じような気持になりました。「復縁したことは間違っていない」と信じたかったのですが、友人の隣には今の私の居場所は無く、例えようのない居心地の悪さを感じました。
退院後、工場内での勤務形態や業務内容が「ガラリ」と変わりました。3交替勤務から常日勤に変わったことで、健康的な生活が送れるようになりました。業務の方は、機械を弄る男ばかりの職場から女性の多い職場に異動になり、職場の管理を任されました。
始めの頃は女性への接し方、扱い方にいつも悩んでいました。男ばかりの環境がどれだけ働きやすいか、身に染みて感じました。私が再婚できなかったのはこの環境のせいです(笑)いろんな問題が勃発しながらも、徐々に要領を得てその環境に適応していきました。そのお陰で、今では「お姉様がた」と対等以上に渡り合えるようになりました。
職場には技能実習生としてベトナムの女性が沢山いました。日本人と違ってベトナム人は子供みたいに純粋で、とても明るく素直で愛嬌があり、私の癒しとなってくれました。ベトナム料理を作ってくれたり、日帰り旅行にも一緒に行きました。
日本語は少ししか話せないので、人と接するのが得意でない私にとって、多くを話す必要がないことはとっても気楽なことでした。最低限の言葉と笑顔さえあれば、心が通じたようにすぐ打ち解ける事ができました。
断酒会には真面目に参加し、自分の体験したこと素直に語りました。多くの人の前で自分の過去を語るのはとても緊張しますが、終わると不思議と心が軽くなっていました。
今までに多くのアルコール依存症者の体験を聞きました。どこにでもいるような人達が語る壮絶なストーリーには、何か特別な力があり私をアルコールから遠ざけてくれました。
私が所属していた支部の支部長は「断酒会の期待の星じゃ」と私に言ってくれ、私にいろいろと世話を焼いてくれました。それに恩を感じた私は、積極的にいろんな場所で開かれる断酒会に参加していきました。
精神病棟で同じ部屋だった「おっさん」の家に遊びに行きました。片田舎で一人暮らしをしていて、そこで「おっさん」のいろいろな話を聞きました。
近くに住む兄夫婦とうまくいっていないこと。昔はバイクに乗って「やんちゃ」をしていたこと。樹木医の資格を持っていること。秋になると山へ松茸を取りに行くこと。時には楽しそうに、時には寂しそうに語られる話を、私はただ黙って聞いていました。貧乏暮らしをしているのは一目瞭然でしたが、私が遊びに行くとご飯を作ってくれて一緒に食べました。
そんな「おっさん」ですが、退院しても相変わらずお酒を飲み、自分がアルコール依存症であることを認められずにいました。アルコール依存症は否認の病気です。私の様に自分から治療を求める人は珍しいのです。私は「おっさん」を通してアルコール依存症の治療の難しさを改めて感じました。
私はお酒をやめることを一度も進めませんでした。私にできることは「おっさん」の話を聞いてあげることだけでした。そのうち酔って電話を掛けてくるようになり、その時のことをぜんぜん覚えていないことがよくありました。お酒を飲んでいなくても、認知症のように同じ話を何回もしました。もちろんそれも、アルコールを長年飲み続けてきたことによる症状でした。
そんなことが続き「おっさん」と私は疎遠になっていきました。ですが私は一度も「おっさん」をだらしない人間だと思ったことはありません。一緒に病院で過ごしていたので、お酒を飲んでいない時の、面倒見のいい優しい性格を知っていたからです。悪いのはアルコールなのです。
後から考えると、この頃の私は軽い躁状態でした。20代前半から波はありましたが「抑うつ状態」が長く続いていました。ここに来て人生で初めて躁状態になり、積極的に人間関係を持つようになっていました。
気分転換を理由に引っ越しをして、電化製品や家具、日用品を買い替えてかなりの浪費をしていました。
しかし退院後の軽い躁状態は長くは続かず、私の気分は何故かまた憂鬱な状態へ戻っていきました。一時的に広がった人間関係を持続することは、残念ながらできませんでした。
人との交流が苦痛になり断酒会をやめました。いろいろと面倒を見てくれていた断酒会の先輩方が、この頃には「お節介なジジイとババア」に見えていました。毎回同じ様なメンバー、同じ様な体験発表、同じ台詞を繰り返す高齢者たちに私は我慢ができなくなっていました。
その頃私を一番イライラさせた言葉が「断酒優先」です。仕事を引退している人や、断酒会に生きがいを見出せる人は「断酒優先」でこと足りるかもしれませんが、仕事やそれに関わる付き合いがある私には「断酒優先」を押し付けてくる断酒会に嫌気がさしていました。
退院して1年程で、また人を避ける様になっていきました。あれほど満ちあふれていた生命力は空っぽになり、抑うつ状態が顔を覗かせました。私は息苦しさを感じる生活を送るようになり、様々な不調をきたすようになります。
始めは「おでこ」を締め付けられるような頭痛に悩ませられました。特に仕事中は締め付けられる鈍い痛みが頻発しました。ちょうど孫悟空の頭の輪が絞まる感覚です。治る気配が無いので病院へ行き「緊張性頭痛」という病名をもらいました。処方された薬を飲むことで回復に向かいました。
次はお酒を飲んでいないのに、手の指が動きにくかったり、震えたりするようになりました。仕事をするのに少々支障があり、こちらも診察を受けた結果【薬剤性パーキンソン症候群】という病名をもらいました。向精神薬などの飲み合わせが影響して症状がでていたようです。薬の種類を変えることですんなり治りました。
最後は大ボスです。私はアルコールを飲まなくなってからというもの、暴飲暴食がエスカレートしていきました。
仕事の休憩中に「コーラ500ml」を一気飲みし、仕事帰りにはコンビニで「タピオカミルクティー」を味わい、夕食は毎日コンビニ弁当というかなり偏った食生活を送っていました。そんな食生活を送る中で、以下のような症状が現れます。
1時間のうちに何度もトイレに行く。飲んでも飲んでも喉が渇く。めまいで気を失いそうになる。1、2か月で15キロぐらい体重が激減。このような症状をネットで調べ確信がないまでも「糖尿病なのでは?」という疑問を持ち始めました。
症状は改善される気配もなく、思い切って内科を受診しました。血糖値が746で、ヘモグロビンA1Cは計測不能という結果で、医師からすぐに大きな病院を受診するよう指導されました。
翌週に仕事を休んで大きな病院へいき再度血液検査をすると、ヘモグロビンA1Cは16.2でシーズンベストを更新し「ペットボトル症候群」という急性の糖尿病と診断されました。
すぐに車椅子に乗せられて病院を駆け巡り、体中を調べていきました。外来患者なんか追い抜いて、待合に着いたら最優先で検査をしてもらいました。長く待たされるイメージの大きな病院で、最高に爽快なアトラクションを体験したのでした。
2015年4月。精神病棟から退院して2年半でまた入院です。受診した当日に入院が決まったので、いったん自宅に帰り入院の準備をして、必要なモノを買って病院へ戻りました。大部屋に空きが無かったので個室へ入院し、静かな病室でゆっくりと今までの事を思い出していました。
お酒が飲めなくなったかと思えば次は食事制限で、絶望的な状態であることを悲観しました。人生の80%の楽しみを奪われたと、私の「お楽しみ計算装置」が数字をはじき出しました。一方で、自分に必要のないモノをことごとく遠ざけていく、得体のしれないモノの気配を感じました。
血糖値がめちゃくちゃ高かったので、最初の一週間は相棒のように生理食塩水の点滴を傍らに生活をしました。
病院内では問題はなかったのですが、喫煙所が病院の敷地外にあったのでとても気まずい思いをしました。7階の病室から敷地外の喫煙所まで点滴と一緒に「がらがらがらがら」と障害物を回避しながら毎日10往復はしました。
血糖値の上昇を穏やかにする、食後の運動には丁度よかったんですけどね(笑)点滴が取れてからも勝手に敷地外に出て、食後のウォーキングに励みました。
入院中に一番インパクトがあったのは食事です。「すいません、私のごはんを隠れてつまみ食いした人がいます!」と言いたいぐらい食べ残し感のある食事でした。
私にとって一番の試練だったのが、インシュリン注射でした。自分で打つ練習をするように薬剤師さんから指導されましたが、最後まで看護師さんにしてもらい、結局一度も自分で注射することはありませんでした。
物理的に自分に針を刺すのも十分に怖い事でしたが、慣れて気軽に打てる様になることで「気分が落ちた時や泥酔状態の時にインシュリンを大量に注射してしまうのでは?」という怖さから、どうしても自分でインシュリンを注射する気にはなれませんでした。
精神病棟の時はアルコール教室、今回は糖尿病教室で糖尿病について学びました。糖尿病について学ぶにつれ、未来に希望が持てなくなりました。「いちいち食べるモノのカロリーなんて見てられるか」「なにが楽しくて毎日自分の足を点検せにゃならんのだ」という不平不満ばかりが出てきました。
2週間経って退院するころには3キロぐらい痩せていました。担当の先生は「インシュリンを打ちたくない理由」を理解してくれ、飲み薬だけでなんとか血糖値を維持できるよう考えてくれました。方針を変えてくれた先生の好意に応えられるよう、自らも血糖値の維持に取り組んでいきました。
2週間はあっという間でしたが、退院する頃には未来に対して前向きに考えることができる様になっていました。そして精神病棟を退院したときよりも強力な【躁状態】が私を待ち構えていました。
【うつ病】【境界性人格障害】【アルコール依存症】ときて【糖尿病】です。病気のデパートと銘打っただけあって、当店はいろんな病気を取り揃えておりまぁ~す。治りにくい、もしくは治らない病気になり過ぎぃー!この頃になると、さすがの家族も私に同情するようなコメントをくれましたとさ・・・
(文字の密度高くてゴメンm(_ _)m)
次回は最近読んだ小説について書いてみようかと思っています。
ではまた次回で(#^^#)
Myriams-FotosによるPixabayからの画像