罪悪感
電車に乗ってスポーツジムに通っている。先週の土曜日、途中の駅でベビーカーに子供を乗せた母親が乗車してきた。私とはドアをはさんで向かいに場所を確保したようだ。私は終点で降りるときのことを考えていた。「ベビーカーを駅のホームに下ろすの、手伝った方がいいよね」そうするのが正しいとわかっている。なのに・・・声が掛けられなかった。私以外の誰も手伝おうとはしなかった。母親は力任せにベビーカーをホームに下ろそうとして、開いたドアにベビーカーのタイヤが引っかかった。それでも、私は手を差し伸べることができなかった。傍観者の一人となりさがる私。
駅の改札に向かう途中に罪悪感は増していった。なぜ勇気をだして声を掛けなかったのだろうって・・・そもそもなぜ正しいことをするのに勇気がいるのだろう。傍観者となるのは、他人と一緒に傍観者となるのは簡単だった。
清々しい
その次の日、大学でFP2級の試験があった。教室は100人ぐらい人がいる広い教室。オッサンおばさんもいるし、大学生ぐらいの若者もいる。9時から12時までの2時間試験がある。頻尿なのでこれでもかってぐらいトイレに行く。
試験がはじまって1時間ぐらいが経過したその時、私のとなりの女子大生が手をあげて「すいません」と小さな声を出した。その言葉は試験官には届かなかった。100人近くが静かに試験を受けている空間では、大きな声はとっても出しにくい。でも、私を含めた彼女の周りに座って試験を受けている人間には聞こえている。でも、みんなが何も聞こえなかったかのように試験と向き合っていた。でも、その中にはもう罪悪感を増したくないオッサンがいた。オッサンは「すいませーん!」と大きな声を出した。こちらを向いた試験官にジェスチャーで「こっちこっち」と隣の女子大生の方に手をかざす。女子大生は無事トイレに行けたし、そのあとは集中して試験を受けられたことだろう。ご褒美のような清々しい気持ちになった。
この時の私には、次の日が地獄になるとは知る由もなかった。
二日酔い
試験が終わって、餃子の王将に向かう足どりは軽かった。「もう勉強は終わりだー!」と解放感を味わっていた。そして、正しいことをしてとっても清々しい気持ちだった。
王将でゴクゴクビール飲む。クソ美味しい。
カラオケ喫茶で歌いながらハイボールをゴクゴク飲む。クソ気持ちいい。
そして飲み過ぎて記憶が無くなる。
月曜日は二日酔い。職場で地獄を味わうのでした。
思いやりの波紋
あのとき餃子の王将に行かず、帰って試験の答え合わせをしていたら・・・月曜日に二日酔いで苦しむこともなかった。正しいことをするのには勇気がいる。
正しいことをするのに勇気がいるのは、それが正しいという保証などないからかもしれない。自分の気持ちがうまく届くか心配にもなる。
でも私はこうも思う。自分の思いやりが伝わって、相手の中で新しい思いやりが生まれたら素敵だなって。ドミノみたいに、波紋みたいに、その後いろんな人に伝わったら素敵だなって。思う。
もしかしたら、自分の思いやりがまわりまわって自分に返ってくるかもしれないしね。その思いやりにまた勇気をもらう。
そんなあたたかい世界を想像している。
晴れ風飲みながら(^^♪